minority’s diary

ゲイなギフテッドの自己記録

なんでまだ生きているんだろ

小学生の頃、幼馴染の女の子がすきで、将来結婚。とか夢を見ていたもの。

 

それが、中三の夏の出来事で一変。

住む世界が変わった。

陽の当らない場所。

当時のゲイって、まだ陽の当らない場所にしかいなくて。

でも、クラブカルチャーなどで流行の先を行っていて。

それは、健全な世界とは違う裏の世界の入り口でもあって。

 

高校の時にやりとりしていた人は、横浜の高校の人。

タバコではない、違法な草が当たり前。

自分はやらなかったけど。

 

そして、20代。

合法ドラック、脱法ドラックなんてものが出てきて。

クスリを盛られて意識を失ったり。

あの人連絡取れないと思ったら捕まったらしいよ。

とかそんな噂が駆け巡ったり。

芸能人が捕まったりも。

今でもクラブはドラッグの温床とか思われているみたいだけど、昔は。

と言っても当時は違法でもなかったし、規制もなかった。

そして、効果も弱かった。

今は、規制を抜けるために、色々と合成して、キツいのが多いとネットで見た。

 

それでも、意識は失って。

輪姦されそうになって。

なんとか助けを求めて逃れられたけど。

あの時にそのままハマっていたらどうなっていただろう。

 

 

そもそも、見知らぬ外国人にレイプされ。

そんな時にテレビで流れていたのが、AIDSが。。。

って問題で。

高校生の自分にとっては、あぁ、もしかしたら。

先は長くなく死ぬんだなって。

検査なんて怖くてできなくて。

今みたいな治療薬もなかったし、かかったら死ぬ病気だと思っていたし、高校生ではそこまで。

 

自暴自棄にもなる反面。

やりたいこともあって、生きたいって強い思いではないけど、死ねなかったらどうしようって思いもあって、生きる道を模索もしていて。

けど、どこかで、あと10年もしたら発症して死ぬって。

 

だから、いろんな人の悪意とか悪いものとか全部引き受けて消えていこうと思ってた。

そうやって依代になって、悪い気を吸って死ぬんだって。

そうすれば、こんな自分でも世の中の役に立つって。

 

けど、20代半ばで死ぬつもりが、なんの因果か40歳を過ぎて。

依代として吸収した悪い気は、悪性腫瘍として発症して。

死にかけて。

死にかけたけど、死ねなくて。

 

なんでまだ生きているんだろうとふと思う。

 

 

 

なんでこんなことを書いたかというと、座間の9人殺した事件のこと。

殺された人は可愛そう。

みんな夢もあってこれからだっていうのにって。

そんな風に記事を書いて同情を引いているけど、本当にそうなのだろうか。

死にたいけど自殺はできない。

そんな人にとっては、救いの神だったのかもしれない。

 

人を殺したことは、現代社会では償わなければならない罪。

それは償うべき。

だけど、死んだ人のことを勝手に想像で煽って感情に訴えかけようとするのは。

 

やりたいことがあったって、それと同じかそれ以上に死にたいと思っている人だっているし、死にたいなんて思っている人は、そんなこと周りには感じさせないです。

死んでやる。そんな風に言っている人は救われたい人。

本気で死にたい人はそんなことは言わない。

言ったら止められる可能性が高いし。

 

彼女らの気持ちは本人にしかわからない。

想像で自分たちの正義を彼女たちを利用してぶつけるのはやめてほしい。

被害者ビジネスはいい加減。

 

 

 

 

どこに行ってもマイノリティ

初めて。

初めて、高IQ団体の会合に参加。

 

やっぱり感じる違和感。

 

セミナーや研究会に参加すること自体が久しぶりだってのもあるけど。

 

この団体の会員であることに誇りを持っている人、自慢になっている人もいるんだなって。

 

そして感じる排他的な雰囲気。

 

ある種のセグメント、カテゴライズが前提で。

決めつけている部分もあり。

 

それが心地よくて、それを求めて集まっているんだろうけど。

 

なんだか違和感。

 

 

仕事で目にするプレゼンとは違う、学会発表を彷彿とさせるスライド。

 

忘れてきた場所。

 

そして、ここでもやっぱり異質な存在と再認識させられる場所。

 

 

もう仕方がないね。

多様性

人と違って当たり前。
自分は自分。他人は他人。
意見の対立だって、別に嫌いだからとか関係ないのに。
周りの目を気にしながら生きていくとか、もう本当にめんどくさい。
他人と比較してどうなるわけでもないのに、比較をしてどうこう。
いいなー、羨ましいなーと上っ面の薄い感情では思っても、だから何?程度。

もうどうでもいいから、全てカミングアウトしてしまおうかとも思いつつ。

陰で何を言われても、別にもうどうでもいいし。


前までは、その場その場で人格変えて、それ以外の人格の気配すら感じさせないでいたけど、もうどうでもいい。
使い分けやめて、全て自分。

生きている間には、多様性を認める社会になんてならないだろうし、当事者そっちのけで誤解が生じてややこしくなるだけな予感はするし。

価値観は多様。
世の中いろんな人がいて、いろんな考えがあって。
どんな人たちと繋がるかは本人次第。

我慢なんてやめたつもりだったのに

2週間くらい前から体がおかしく。

数日前から、背中が真っ赤にはれ、ものが当たると痛い状態。

それが脇腹から腹の方まで痛みが広がり、鈍痛がしてきたので、耐えきれず昨日仕事の合間に病院へ。

 

医者に見せるなり、よくこんなになるまで我慢していましたねって。

昔、劇症化する一歩手前で病院に駆け込んだ肝炎の時と同じことを言われた。

 

肝炎を起こしてから、もう我慢するのはやめようって思っていたのに。

 

仕事が忙しくて、病院に行く暇もなく。

この土日に行こうかと思っていたところではあったけど。

 

感染性粉瘤。

膿が溜まっているので、切開して排膿したほうが楽になると言うことで、その場で同意書を書き数分後には簡単なオペ。

 

当たると痛い。

それは服でも痛い。

そんなところに麻酔を打たれて気絶するかと思うような言葉になんて出ない激痛。

それに耐えていたら、気がついたら終わっていた。

 

その後も仕事に戻り、昨日は早く帰って休んでいたけど、患部が痛い以外は元気だから困る。

そして、痛みで夜中に目がさめる。

 

今日も仕事に来たけど、ちょっと無理そうだから帰ろうかと。

 

我慢しているつもりなんてないのに。

 

 

ふと入った本屋で昔の夢を思い出した。

 

小学生の頃は漠然と学者になりたいと思っていた。

中学生の頃は精神科医

高校生の頃は、真っ白になって。で、そこから出てきたのが、書道家とかステージの照明をはじめとしたライティングデザイナー。

大学学部生の頃は、研究所に勤務したいと考えて。

院生の頃は、就職活動しなければならなかったので、夢は特になく。現実を見ていて、エンジニアになるのか研究者になるのかその他かなんて漠然と。

 

就職してから20代は、フランスに留学してルーブル美術館の地下で働きたいとかんがえていたんだけど、奨学金を得られる年齢の上限が変わり、間に合わないと悟って諦め。

 

ヨガのインストラクター。

カフェオーナー。

小さなコミュニティを形成していろんな人たちの交流の場をつくることだったり、ってなると政治?とも思ったり。

政治は無理。

 

なんてことを考えながら今に至る。

 

今は、とりあえず好きなことして、自分にしかできないことをして、老後はカフェでも開いてのんびり過ごしたいなと。

それだけ。

 

 

審美眼

審美眼


世の中には思考をとめてしまって、判断を誰かに委ねる。
そんな人たちが少なからずいる。
理由は、考えたくないからとか、考えても仕方ないからとか、難しすぎるからとか、責任をとりたくないからとか、さまざま。

いずれ、AIが活躍し始めると、おそらくこの人たちは増える。
AIに委ねて自分で考えることをとめてしまう。

どこまで委ねるのかは個人差はあるだろう。


AIに委ねる生活。
それはそれで楽なのかもしれない。
管理されているようなものだから。


多様な価値観に溢れ、処理しきれないほどの情報にさらされていけば、そうせざるを得ないのかもしれない。


そうなっていったときに、きっと人は別れていく。

AIに支配されていく人。
そうではない人。
そして、AIを持つことのできない人。

AIも多様性をもっていればいいかもしれないけど、似たような社会で似たような生活。
差はなくなっていくのかもしれない。
そうなると個人の特性はますます埋もれていくのか。

 

いずれにせよ、多様な価値観と異常なほどの情報にさらされて、決断を迫られることが起きるだろう。
そうなっていったときにさまざまなことの判断を自分でできるようにいることが必要になる。
たぶんそれが人間らしさで人間にしかできないこと。しばらくは。

理論
数値
数式

そういうことで結論づけられることはAIに任せてもいいのかもしれない。
けど、感情に感覚にそういう分野はまだしばらくは人間のほうが優位だと考える


感覚に働きかけるものは何か。
感情を揺さぶるものは何か。
アートをはじめとした、最低限の生活には必要のないもの。
生活を彩るプラスα。

得てして役にはたたないコストとして切り捨てられるもの。
それが、きっとこれから大事になっていく。


自分なりの審美眼を持って判断ができて、良いと思えるものをセレクトできる能力。
物理的なものではなくて、感覚的なもの。
そういう世界に足を踏み入れ始めている。

パラレルワールド

映画や本は別の人生を歩かせてくれる。

映画を観てきた。
別に取り立てて素晴らしい映画でもないけど、充実した。

小さい頃から映画が好きだった。
本を読むのも好きだった。
知らない世界に連れていってくれる。
自分の知らない世界。


人生は一度だけ。
やり直すことはできない。
後悔してももう遅い。

だけど、小説や映画は、実際の人生とは別の人生を歩かせてくれる。
想像の世界で、どこまで疑似体験できるのか。
たぶんその深さによって、得られるものは大きく違う。
もちろん実際に体験するのに比べれば大きく異なるし、間違っているかもしれない。
だけれども、それを体験するのには、一生かけなければならないもの、一生かけてもなれないもの、そんな経験だって、うっすらとはできる。

それが人間の深みであったり、人生の深みにつながるんじゃないかと、今更ながら感じるようになってきた。

いろいろな経験をして、いろいろな価値観に触れて、それで始めて自分というものがオリジナルというものが出せるようになる。

小さな狭い世界に閉じこもっていては、その世界のことしかわからないし、どんどんパラレルワールドの深度を深めていくことになる。
同じ日本にいるのに、全然住んでる世界は違う。
同じ日本語を使っているのに、意味がまったく異なる。
どんどんそうやって細分化していって、いずれ、異なる世界に別れていくのかもしれない。

今までの歴史では、土地を広げていって、その土地土地での生活に根ざして文化や言葉が発達していって、別れていった。

これからは、同じ土地に住んでいるけど、世界が違う存在に分化していく。
同じ新宿で生活していても。
すれ違っても目に見えていないかのような。


どういう世界に住むようになるのかは、その人の価値観と生き方。


これが、自分なりのパラレルワールドの認識。