minority’s diary

ゲイなギフテッドの自己記録

マイノリティの生き方

 

人と違うということで好奇の目で見られる。
ことに日本では。
人と同じということで安心する人たち。
知らないものは怖いもの。
だから、和を乱すのは悪いこと。
だから、いじめられたり、いわれもしないことを言われたり。

小さい子は特に。
子供は残酷。
自分と違う、みんなと違うと変なのとバカにする。
苦手なものがあると、こんなこともできないのかとバカにする。
かといって、自分より優れていて、得体の知れないものには恐怖を感じる。

人間って勝手なもの。

多様性を認めましょうといっても、自分の知らないところ、身の回りにそういう人がいるのは嫌だと答える。

こういう社会が嫌で日本から離れる人もいる。

マイノリティには、いくつもの種類がある。
身体的に不自由な人。
精神的に不安定な人。


どういう生き方を選べばいいのか。
そんな子供を持ったらどうやって育てればいいのか。

同じ種類のマイノリティ同士で集まって、小さなコミュニティを作ってその中でだけ生活する。
世界中にある中華街の中のように。
ニューヨークの中華街に行った時に驚いたことは、英語が通じない店があるということ。
それでも生活はできている。
なぜなら、中国語が話せる人たちで固まっているから。

そういうのも1つの手ではあると思う。
でも、物理的に制約がある。

日本中どこで生まれるかわらかないマイノリティをどこかに集めてそこで暮らす。
そんなことは可能なのだろうか。
まるで一般社会から隔離するかのように。

そのコミュニティで生まれた子は外の世界をしりたいと思うようになるのではないのか。
思春期を迎えて外に行きたいといいだしたらどうするのだろうか。

マイノリティの子供を持った親は、仕事を辞めて、こどものために、見知らぬ土地にひっこすことができるのだろうかという疑問もある。

 

だから、私は、自分が他人と何が違うのかと知って、うまく一般社会に馴染めるようなトレーニングが必要なのではないかと思う。
教育は、小学校だけではなく、その子の得意分野を伸ばすような教育も必要だとは思うが、それはネットを通じてでもできるし、月に一度どこかで集まってなどでもできるとは思う

コミュニケーションの取り方。

自分は自分他人は他人、何を言われても強くいられるタフな精神を持てるように。
信念を持つというか。


人と違うことはすばらしいことでもある。
それをうまく表現していければ、世の中の役に立つこともできるだろう。
小さなコミュニティに収まるだけではなくて、特技をいかして、揺るぎない信念を持って、前を向いて行きていける
そんな社会にしていきたい。

 

人と違うこと

 1歳から高校卒業するまで住んでいた場所は日本でも有数の美術大学から徒歩5分の場所。

 そこに通う学生はみんな個性的で、流行なんて関係ないという人たちだった。

 そんな環境で育ったからか、小学校中学校は、とても個性的。

 個性的というか、人と違うことがかっこいいというか、世の中からは隔離されていたかのような世界だった。

 

 中学時代、ビジュアル系バンドが出始めた頃。

 中学校では、J-ROCKのインディーズバンドがとても流行っていた。

 メジャーデビューなんてしてないから、テレビから流れてくることなんてまずない。

 自分たちで調べて、試して、聴いて、シェアして。

 給食の時間、音楽が流れてくるのだが、そんな放送もインディーズバンド。

 テレビの世界と現実の世界は違うものだった。

 

 高校に進学して、カルチャーショックを受ける。

 周りはテレビから聞こえてくるような音楽ばかり聴いていて、流行を意識している。

 自分がいいと思ったものを聞いているのか、テレビや雑誌がいいといっているからなのか。

 

 B’zをはじめとしたバンド達。

 ミリオンセラーを連発していた時代。

 だけど、多分一枚も買ったことない。

 興味がない。

 何がいいのかがわからない。

 だけど、周りはみんな聞いている。

 それ、本当にいいと思っているの?

 思っていたけど、聞けなかった。

 聞いているのは、主に流行に流されるタイプの人たちだったから。

 テレビでやっていることを真似したり、あれがかっこいいと言われれば、それに飛びつき。

 自分がない人たち。

 

 自分が仲良くなったのは、結局、そういうのではない個性的な音楽を好きだった人たち。

 といっても、本音で付き合えてたわけではないけど。

 本当のこと言えないから、うつ病のふりして、安定剤を処方してもらっていた高校時代。

 

パラレルワールド

 並行世界。

 この世界とは微妙に違う世界が多重に存在しているという概念。

 また、オカルトな話。

 

 最近、考えるようになった。

 パラレルワールドは存在するのではないかと。

 といっても、物質世界が多重に存在しているというようなオカルトではなく、認識のレベルでの話。

 

 色の専門家として、勉強していた頃、よく話に出ていたのは、白人と日本人の見ている世界は同じかということ。

 世界というと大げさかもしれないけど、色でいったらそうでもないのでは。

 黒い瞳を通してみる色を青い瞳を通してみる色。

 同じなのかどうか。

 

 そういうことの積み重ねがパラレルワールドなんではないのかなと。

 

 背が高い人と低い人。

 同じ物質世界にいて、同じ景色を見ていても、見える世界は違う。

 たとえ同じ身長の人だとしても、育った環境、経験、性格などによって、観るポイントは少しずつ違っているはず。

 

 視覚だけではなく、他の感覚でも。

 寒いと感じるか暑いと感じるか。

 同じ空間にいても違う。

 

 認識の世界では、誰一人同じ世界にいないのではないのかと。

 

 世の中が複雑になればなるほど、気にするポイントは違って、生きていく世界が別れていく。

 賃金の差による格差しかり。

 

宗教観

 小さい頃から仏教新興宗教神道を見てきた自分としては、どこかの宗教に入るのは違うという漠然としたものがあった。

 キリスト教イスラム教、これらの唯一神を崇める宗教は根本的に合わない。

 自分たちの敵対する人間が崇める神を邪神と呼んで、撲滅してきた。

 太陽の神様がいて、月の神様がいて、水の神に火の神に、あらゆるものに神が宿ると信じてきた日本で日本人に生まれて身としては違和感しかない。

 

 かといって、キリスト教イスラム教を否定するつもりもない。

 自分の考えとしては、全て存在しているというもの。

 キリストもいて、アラーもいて、ゼウスもいて、天照大神もいる。

 その中で、どの神を信じることで救われるのか、選択の問題。

 

 

 昔、イティハーサという漫画があった。

 古代日本を舞台にした物語。

 目に見える神と目に見えない神、そして、人間と、半獣半人の話。

 この漫画が自分の宗教観を決定づけた。

 

 目に見える神は善神と悪神に分かれている。

 それぞれの正義に基づいて戦いをしていて、そこに人間が巻き込まれていく話。

 

 神を信じることによって救われる人がいる。

 善神だけが人を救う訳ではない。

 悪神によってのみ救われる人もいる。

 唯一神の治める世界は、思考を止めてしまい、停滞する。

 そして、強い信念があれば、神などいらない。

  

 

 水は流れて水となり、風は吹いて風となる。人はゆらいで人となる。

 

 

 神と人との関わり方、関係性。

 これが全てなんではないかと思う。

 

スピリチュアルな世界

 今の日本でスピリチュアルというとなぜか胡散臭いと思われる。

 昔の日本は違ったのに。

 

 現代の科学は万能ではなくて、世の中の事象の一部を解明しているだけなのに、それがすべてだと言わんばかりに。

 

 医学に関しても、西洋医学が信仰されているけど、昔ながらの東洋医学はすべてが嘘なのかと。

 

 目に見えないものを信じなさすぎる。

 

 日本はもともとシャーマニズムの国。

 山に神様がいて、火にも神様がいて、水にも木にも。

 神様として信仰してきた。

 唯一神ではなくて多神教

 

 イベントとして、初詣にいって、お宮参りにいって。

 なのに、宗教は信じない。

 意識しないくらい生活に密着しているとも言えるかもしれないけど。

 

 それなのに、科学文明ですべてが説明できるといわんばかりに、説明できないことを信じないで否定する。

 奢り。

 信じない人は信じる人をそんなオカルトを信じているのかと卑下する。

 

 昔の人たちは理解できないことを神の行いや祟りなどとして恐れ敬ってきた。

 今の人たちは理解できないことを拒絶する。

 目に見えないものを否定する。

 

 たった一つ、嘘が見つかると、全部が嘘と認定する。

 超能力でも霊能でも。

 テレビで特集をされているような人たち。

 全員が本物だとは思わない。

 むしろほとんどが偽物かもしれない。

 だけど、中には本物もいるかもしれないのに、全てを嘘だと決めつける。

 

 おかしなことだと思う。

体調をくずす

小さい頃、身体が弱かった。今でもあまり健康なほうではない。

 弱かったといっても、幼稚園の時には、体操教室に通っていたりと、そこそこ運動はしているタイプ。

 風邪をひきやすかったり、原因不明の病気にかかったり。

 微熱が続いて病院にいってもたらいまわしにされて結局原因はわからず。

 そんな子供時代。

 だから、母親はなんとかしようと新興宗教のドアを叩いていた。

 病院でわからない→だったら神頼み。

 たぶん小学生の頃だけでも記憶にあるだけで4箇所。

 だからもっと多いのかもしれない。

 

 突然の発熱。

 寒気、ほてり、腹痛、などなどで寝込むことも多く。

 学校が嫌いで、というわけではなくて、行きたいけど具合がわるくていけない。

 

 新興宗教のドアを叩いて、高額なお金をはらって、視てもらってもよくはならない。

 母親は、言われることを信じて、神社にお参りに行ったり、いろいろとしてくれた。

 だけど、結局何も変わらない。

 

 元気だったのに、突然、何の前触れもなく苦しみ出す子供を見て、どう思っていたのだろうと思うと。

 

 小学生の頃、髄膜炎の恐れがあると、入院したり検査したり。

 入院は、それだけではなくて、病院通いは日課みたいなもの。

 

 あっちが痛い、こっちが痛い。

 どこかが痛い、つらい、というのは普通になっていて、身体が軽いなんてあまりなかったかもしれない。

 

 中学生の頃、とある方とご縁をいただいて、それから少しずつ変わった。

 

 いろいろなものが憑いてる。

 霊媒体質。

 吸い寄せるというか、狙われるというか。

 

 そんなことを教えてくれて、払ってくれて、対処方法も教えてくれた。

 その人にお祓いをしてもらうと、自然と良くなる。

 

 

 その人との縁がなかったら、すでにこの世にいないのかもしれない。

 

 とはいえ、まだまだ。

 

 

 小さい頃微熱が続いていたのも、肝臓が炎症を起こしているみたいだと教えてくれた。

 病院で検査しても結果として明らかな所見は見受けられないと言われていた。

 

 大学時代に死にかけたことがある。

 B型肝炎。

 もう劇症化寸前だったらしい。

 医者には、なんでこんなになるまで我慢していたんだと怒られたが、体調が悪いのが普通の自分にとっては我慢していたつもりもなく。

 一カ月くらい入院していたのだろうか。

 そういえば、この時病院のベッドでダイアナ妃の事故のニュースを見たな。

 そんな時代。

 

 小さい頃の微熱と関係していたのか定かではないが、こんなことがあったのは事実。

 

 

 信じてくれる人もいれば、そんなバカな。という人もいるとは思う。

 だけど、自分にとっては、事実だし、これが脳の中の妄想から起こったことだとしても、現実に起こっているので事実としか言いようがない。

 

 もちろん、その人がすべて治してくれるわけではなくて、極一部、病院ではわからないようなことを指摘してくれるだけ。

 世の中、ひとつ嘘がみつかったらすべてが嘘だと認識しがちだけどそうではない。

 

 

 某団体の試験を受けてみようと思ったのは、この人に会った時に、なんて頭のいい子なんだって言われたのがひとつのきっかけ。

 こんな頭のいい子はみたことないって。

 半信半疑だったけど、忘れられなくて。

 それから、もう25年か。 

なにかが見える。

 人と違うとは気がつかなかった。

 他の人には見えない、感じない、聞こえないものがわかる。

 視覚で認識することもあれば、目は使わずにイメージがダイレクトに脳に伝わることもある。

 脳にイメージがとどくことの方が多いかもしれない。

 人に言っても頭がおかしいとしか思われない今の日本社会において、これは誰にも言わない秘密のこと。

 

 母親の家系が信仰深く、小さい頃から神様の話を聞かされていた。

 オカルトと言えばオカルト。

 だけど、小さな自分にはそれが当然で。

 目に見えないものの存在は信じていた。

 

 匂いがする、気配を感じる。視える。

 誰もいないところで、ふと感じる。

 

 自分が見たくて見ているのではないかとも思う。

 特別でありたいという願望が見せているのではないかとも思う。

 だけど、実際に見えてしまう。

 ふとした時に。

 それはとても怖いものであったり、何も感じないものであったり。

 

 小学生の頃、父親の実家に一人泊まったことがあった。

 夜中、といっても、11時くらいだったのかもしれないが、ふと目が覚めた。

 そこには、何かの足があった。

 人間ではないもの。

 当時の自分の語句では、河童と言っていた。

 河童の足が見えたと。

 水かきがついていて、二足歩行。

 だから河童。

 よくよく考えると鳥でも二足歩行するものいるのにね。

 

 車で一時間くらいの距離。

 そんな夜中に自宅に電話をして、父親に迎えに来てもらった。

 それが今でも忘れられない。

 

 伯父が他界した時、それは初七日だったのか49日だったのか、記憶には定かではないが、伯父が光に向かってあるいていくイメージが視えた。

 あぁ、これで成仏できたのかなと。

 

 祖母の法要の時、お坊さんが読経していると、お寺の左上の隅に何かいるのを感じた。

 日本髪を結った若い女の人。

 あれは誰だったのだろう。

 

 社会人になってからも続いていて、部屋で寝ていると視線を感じて目が覚めて、その方向を見ると窓の外から覗き込んでる目が視えた。

 思い出すと鳥肌が経つ。

 二階の部屋。

 カーテンの隙間から顔をのぞかせていた。

 

 それ以外もいろいろとある。

 誰もいないはずの二階で足音が聞こえたり、何かを動かす音が聞こえたり。

 廊下から誰かが視てるなって感じて、意識を集中すると、背が高い痩せた男の人か。とか。

 

 匂いもある。

 何もないところで、突然お線香のにおいがしたり。

 あの人がつかってる香水か、と感じたり。

 

 今では、あー誰かいるなー、誰だろう。

 何か悪いことしたのかな。

 憑いてこられてしまったか。

 

 なんて、日常。

 月に一度お祓いをしてもらうのも日常。

 

 そんな生活。