minority’s diary

ゲイなギフテッドの自己記録

24時間テレビの行く末

いつまでこの番組は続くのだろう。

 

義足の少女が登山。

盲目の少女が水泳。

 

体に障害を持った人をピックアップして、テレビ映えする子を中心に採用して。

すべては視聴率のため。

 

視聴者が程よく優越感に浸れるところで。

見ている人たちは優越感に浸っているとは感じていない。

だけど、自分が普通に生まれてきた、それだけで感謝。

そう思える。

無意識のうちに、あーこの人たちみたいにならなくてよかった。

そう感じている。

 

バカにしているわけではない。

けど、安心している。

自分よりも辛い人がいるんだ、苦労している人がいるんだ。

そんな人たちでも頑張れば達成できるんだ。

だから自分も頑張ろう。

 

そういう思考回路。

自分たちはあくまでも演者よりも上。

そういう上下関係で成り立っている番組。

 

 

そんなのいつまで続くのだろうか。

 

義足や義手。

身体を補うパーツはどんどん高性能化していき、機械と融合していく。

トランスヒューマニズム

これが進んでいったら、どうなるのだろう。

 

障害者として、下に見てきた人が、義足、義手、義脳、、、、いろいろなパーツで世の中で活躍していく。

すると、下に見てきたはずの障害者が、いつのまにか気がつけば。。。

 

いずれ健常者でも、金がある人は、肉体を改造していく。

 

24時間テレビは、格差社会が広がっていき、肉体を改造できない人。

金銭的に貧しい人を対象に、その姿を描いていくのだろうか。

 

おそらく、その時代には、ポリシーとして、肉体の改造をしない人たちもいるはず。

自然派。

オールドタイプ。

 

その人たちは貧しくて改造しないのではないだろうから、そこは対象にはならないだろう。

 

24時間テレビは、その他大勢。

大衆がだいたい同じ。

それが大前提。

24時間テレビだけではない。広告とはそういうもの。

 

その時代には、そういうコンテンツはなくなっている。

もしくは、一部の人たち向けのドキュメンタリーとして存在するだけだろう。

 

こんなバカみたいなお祭り騒ぎはなくなっている。

 

 

 

 

 

 

今年もやってきた

明日明後日は24時間テレビ

 

障害者を見世物に金儲けをする番組がまた始まる。

 

身体障害者、マイノリティとしては、不快な思いしかない。

感動の押し付け。

どうだ泣け!

そういうメッセージだけしか伝わってこない。

 

演者は仕事として、演じているだけ。

ボランティアではない。

また募金が集まるのだろう。

どれだけちゃんと使われているのかなんて定かではない。

 

健常者が、障害者を見て、あー、私たちって普通でよかった。

そうやって安心して、お涙頂戴で、募金をする。

それで、自分は幸せというメンタリティを保つ。

ただ、それだけの番組。

 

気持ち悪い

甲子園

この夏の甲子園もやっと終わった。

昔は単純にすごいな、頑張れ、そう思えていた。

 

今は、みててもかわいそうにしか見えない。

上から見ているわけではなく、横からみているわけでもなく、客観的に別の世界のこととしてみているだけだけど。

 

小さい頃に頑張れる、打ち込めることができて、それにのめりこめる環境。

それは素晴らしいことだと思う。

 

でも、結局金儲けのために使われる道具。

甲子園出場者の中からどれだけ野球で生計を立てていけるのか。

 

寝る間も惜しんで、必死に野球に食らいついて、高校卒業したら燃え尽きる。

進学?

就職?

 

体育会の学生が就職で求められている。

それは、20代まで。

お前は考えなくていいから言う通りに動け。

そういう兵隊として便利だから雇われる。

だけど、自分で考えることは放棄していることが多いから中間管理職になるころには、、、

潰しも効かない。

体力しか自慢できることはない。

 

 

人生が30年だったら。

すごく幸せな生活かもしれない。

 

けど、今は人生が80年。

最初の20年で大人たちにいいように利用されて、あとは使い捨て。

 

男性性被害

男子の性被害 ズボン脱がしも | 2017/8/23(水) - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/pickup/6251504

 

今の子は、環境が恵まれてて羨ましい。

 

ズボン脱がしなんてどうってことないと自分は思うけど。

男性が性被害に合わない。

レイプなんてされない。

そんなふうに普通に生活をしていたら思うだろう。

 

女の人に襲われるわけではない。

男が男に襲われる。

レイプされる。

中出しされる。

 

触られる、裸にされる。

そんなのどうってことない。

男が男のものを含む。体に受け入れる。

 

そういうことがある。

含まれる側なら気持ちが悪い。

程度で済むかもしれない。

含む側は、、、

 

誰にもいえない。

言ったら気持ち悪いとバカにされる。

どうしたらいいのかわからない。

 

そんなんで、片っ端から本を読み1人でなんとかしようとしてきた10代を過ごしてきた身としては、こんなに情報があふれていて、救いの手が差し伸べられる。

ましてや法律が定められる。

そんな環境が羨ましい。

 

 

とはいえ、世間の偏見はまだまだ。

大人ならまだしも、子供だったら相談できるのか、それは謎。

すんなり受け入れられる人もいるだろうし、過度なお節介は必要ないと思うけど、そんな判断できる人いないのが現実。

 

被害を受けた本人が声を出さないと。

 

 

 

ちなみに、ゲイとなった今では、なんでもかんでも性被害に結びつけるのは如何なものかとも思う。

青少年の時は他人の性器をはじめ、SEX事情に興味があるのは仕方ない。

その線引きは個人差がありすぎて難しい。

おおっ広げな人、異常なほど隠したがる人。

千差万別。

銭湯で隠すか隠さないかのように。

 

 

なんでもかんでも性被害。

被害届を出す。

周りが過剰反応をする。

これはやめてほしい。

 

 

打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか。

上映2日。

ヤフーのレビューはひどいことになってる。

でも、そう言われても仕方がないのかもしれない。

 

すっきりしなくて、当時のDVDを見直した。

 

すごくシンプルで、すごく切なくて、すごく綺麗。

 

あ〜、この終わり方!!!

 

って思わず思う良さ。

 

 

 

アニメは、なんでこんなめんどくさいことにしてしまったのかなと。

尺を稼ぐためなのか、オリジナリティを出すためなのか、現代にリメイクするためなのか。

何のために必要だったのかわからないけど、あの終わり方にしてしまっては、打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか。

そんなタイトル必要なくなる終わり方。

 

もっと別のタイトルに変えればいいのに。

 

 

あの映画が好きだった人たちが、楽しんで作ったのかもしれない。

でも、単なる自己満足の映画にしかなっていない。

もしくは、いろんな政治的事情により、とてつもなく中途半端な映画になってしまったのか。

制作側も本意ではないのかもしれない。

 

あの映画が好きな人たちなら、このアニメにはとても満足できないと思う。

 

 

Forever Friends

 

あの曲が流れなければ、なんとも思わない、なにも感じない。

むしろ、アニメーションの表現が嫌いな自分にとっては、気持ち悪い、不快な気持ちにしかならなかったかもしれない。

 

あの曲がすべてを洗い流してくれた。

 

 

 

 

打ち上げ花火と同時上映だった

打ち上げ花火が劇場公開されたとき、もう一本の短編映画と同時上映だった。

undo

強迫性緊縛症候群のお話。
愛の病気。

とはいえ、精神病患者が破綻するまでの話。


打ち上げ花火でピュアだった子供時代を思い出し。
そして、undoで、当時の精神状態をあてはめて。

特にundoには、とても共感して、なきじゃくり。
感情移入が捗りすぎて、自分なのか山口智子の役の感情なのかわからなくなるくらい。

テアトル新宿での出来事。


愛されたくて愛されたくて愛されたくて愛されたくて。
それがエスカレートしていく病気。

それを綺麗な映像と切ない音楽。
山口智子豊川悦司が演じている2人。

 

今でも観るとおかしくなる。

それくらいの映画。

 

多分普通の人には単なる暗くてつまらない映画にしか映らない。

これがわかる人はきっと。 

 

 

岩井俊二の綺麗な映像の世界にはまって、みているんだけど、あの世界観は自分には表現できない。
どうしても、飯田譲治の世界になってしまう。。。

打ち上げ花火の持つ危うさ

一晩経って消化してきた。

 

はじめに言うと、今のアニメーションの表現は中途半端で苦手。

受け入れられないことが多い。

もっとデフォルメした昔のアニメ、もっとお金をかけてリアルを追求した(と言ってもアニメとしての表現の中で)ジブリのような世界。

ならまだ受け入れられる。

CGの世界に近づいているアニメーションの表現はとても苦手。

吹き替えも違和感。

もちろん違和感のない場合もある。

けど、この顔でこの骨格でこの声??と思うことの方が多いし、口の動きと声が合っていないのが中途半端で気持ち悪い。

いわば、全編クロちゃん(安田大サーカスの)が演技しているかのような違和感。

 

 

観たあとは、Forever Friendsに全てを持って行かれて、心をかき乱されたけど、冷静になって思い返すと。

 

 

やはり、あの年頃特有の危うさ。

少年少女の持つ危うさが全編通して消えている。

アニメーションのせいもあるだろうけど、菅田将暉広瀬すずじゃ、もうあの年頃の雰囲気は出せない。

そして、無理矢理話を延ばしたせいか、なんだかしつこい。

パラレルワールド感を出したかったのか、今時にはなってはいる。

だけど。

ifの演出が過剰すぎるし、もっとシンプルで、もっと儚くていいんじゃないのかなと、強く思う。

無理矢理エンターティメント作品にしようとしている気がしてならない。

 

もっと、ひっそりと、とある名も無い小中学生の日常の中に起こった不思議な話。

それをこっそりと覗く。

そんな感じが良かったんじゃないのかなと。

 

あとは、岩井俊二の透明感のある絵とREMEDIOSの透明感のある声。

それが微妙にマッチしていた作品だった。

多分。

 

その微妙さを破壊した作品な気がしてならない。

 

 

今の小中学生の世代には、あのくらいのストーリーにしないと響かないのかもしれないけど。

当時の映像ファンとしては、、、